こんにちは。
アカネサス代表の北條です。
今回は、「語ることの重さ」について考えてみたいと思います。
テーマは次の通りです。
語る資格は、
言葉に傷ついた人間だけが持っている。語りとは、沈黙と矛盾に耐えた後のふるまいである。
前回は、横山秀夫の小説『クライマーズ・ハイ』を通して、
語られなかった怒りが、あとから組織を壊す
という構造を見ました。
組織の信頼は、
どの順番で語ったか
ではなく
どれだけ語らなかった時間があったか
によって決まります。
語ることの責任と、
沈黙の重さ。
それが組織を動かす土台になります。
高校生の頃、
私は何度も『百年の孤独』を途中で放り出しました。
名前が重なりすぎて、
誰が誰なのかわからなくなる。
物語は一歩進んで二歩下がるように揺れ続け、
読み進めるのがとても苦しかった。
しかし本当に怖かったのは、
別のところにあったのかもしれません。
それは、
登場人物の語りと行動の
異常なまでの一貫性
でした。
マコンドの人々はみな衝動的です。
科学を信じているのに、
闘鶏で相手の喉を突く。
忠実な妻なのに、
半年村を留守にする。
そして誰かが死ぬと、
空から黄色い花が降る。
その死には、必ず語りが伴います。
それは説明ではありません。
儀式であり、呪いのような重さを持つ語りです。
『百年の孤独』で何かが語られるとき、
言葉は現実を説明するものではありません。
言葉が現実を変えてしまう
のです。
物語の中で、
ジプシーがマコンドに“空飛ぶ絨毯”を持ち込みます。
それは科学なのか、
魔法なのか、
作り話なのか。
誰にもわかりません。
それでも村人たちは信じます。
なぜか。
語られたからです。
語られたものは存在する。
それがマコンドという町の構造でした。
語りが先にあり、
現実があとから続く。
この構造は、
私たちが日々扱う
ビジネスの言葉にも通じています。
ミッション。
ビジョン。
パーパス。
こうした言葉が増えるほど、
逆に言葉が軽くなる組織があります。
語ること自体が目的になり、
語った瞬間に現実が置き去りになる
のです。
しかし本来、語るとは、
その言葉どおりの世界を
引き受ける覚悟
を意味します。
語りとは単なる言葉ではありません。
構造を動かすふるまいです。
理由は単純です。
言葉に傷ついたことがないからです。
言葉に飲まれたことがない。
言葉に沈黙した時間がない。
そういう人が語ると、
言葉は軽くなります。
語る資格は、
沈黙と矛盾に耐えたあと
にしか生まれません。
『百年の孤独』の終盤では、
すべてが書かれた羊皮紙が解読されます。
その瞬間、
マコンドという町そのものが消えていきます。
語られることで終わる。
語られたことで、
それ以外の選択肢が消える。
組織でも同じです。
語りきってしまった組織は動かない。
語るとは、
終わらせることでもあるのです。
語るとは、
情報の並びではありません。
言葉に打たれ、
沈黙し、
矛盾に耐えてきた人だけが、
もう一度語ることを許される。
私はそう思います。
今回のシリーズでは、
読書
語り
言葉の重さ
について考えてきました。
この出発点となった『百年の孤独』は、
スペイン語圏で
「ホットドッグより売れた小説」
と言われたほどのベストセラーです。
それは単なる話題作ではありません。
読者が「面白さ」より先に、
言葉に呑まれる経験
を引き受けた作品だからこそ
広がったのだと思います。
日本でも新潮文庫として出版され、
今も静かに読み継がれています。
難解と思われがちな文学が
ベストセラーであるという事実は、
言葉の重みに耐える読書は、
大衆的でもあり得る
という証でもあるでしょう。
ビジネスは構造です。
しかし構造だけでは
組織は動きません。
そこには、
語る資格を持った人間
が必要です。
その資格は
論理や肩書きでは得られません。
言葉に打たれ、
言葉に沈黙した人間だけが、
もう一度語ることを許されるのだと
私は思います。
このシリーズを最後まで読んでくださった方に、
心から感謝します。
また次は、別の構造の話をしましょう。
── 北條竜太郎
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