こんにちは。
アカネサス代表の北條竜太郎です。
茜丸の民事再生を経て、私は次に、
もっとやっかいで、もっと根深い問題に直面しました。
それが、「家業を継がされる/主体的に継ぐ」というテーマです。
正直に言えば、私はもともと「家業を継ぐこと」に強い憧れを持っていたわけではありません。
しかし、会社が崩れていくなかで、誰かが判断を下さなければならなかった。
たまたま、その役を引き受けたのが私だった──それが事実です。
ただ一方で、もし“家族”という構造がなければ、
私はその判断を下せなかったと思います。
事業承継とは、資産の移転ではなく「関係の再定義」である。
私は、そう強く感じるようになりました。
「社長の息子だからできたんだろう」──
そう思われることがあります。
確かにそれは事実の一面です。
しかし、その言葉には
“誰かの犠牲の上に立っている”という重さ
が含まれていると、私は感じています。
実際、私は学生時代に、家業の借入に対して本人の意思とは無関係に個人保証人に入れられていました。
まだ成人して間もない頃のことです。
そしてその後、自己破産を経験しました。
正直、このことを語るには葛藤があります。
けれど今では、これは「構造の暴力に巻き込まれた一つの現実」として、記録に残すべきだと考えています。
私はこの経験を通じて、“継がされる”という構造の怖さを身体で知りました。
「家業を継がない」という選択肢もありました。
しかしその時点で、自分の名前では融資が通らない状態に追い込まれていました。
継ぐしかない。再構築するしかない。
中小企業経営と金融構造の中で、私は“絡め取られていた”のです。
家族であること。
従業員の顔を知っていること。
工場が遊び場だったこと。
祖父母の仏壇が会社の隣にあること。
そうしたすべてが、「継がざるを得ない」という選択を強めます。
私は多くの後継者・後継社長にお会いしますが、
主体的に継いだというよりも、
むしろ“構造に継がされた”という現実のほうが多いように感じます。
社会学者ピエール・ブルデューは、こう言いました。
「人は自分で選んでいるつもりでも、
実は“無意識の構造=ハビトゥス”に支配されている。」
事業承継とは、自分の中に埋め込まれた価値観を問い直す機会でもあります。
“継がされる”のではなく、“継ぎなおす”。
自分の構想として、家業を再定義していく。
それができなければ、本質的な承継とは呼べない──私はそう考えています。
ブルデューは資本を3つに分類しました。
経済資本(お金・土地・設備)
社会資本(信用・関係性)
文化資本(作法・知識・価値観)
承継すべきは、このうちの「経済資本」だけではありません。
見えない資本=関係性や思想の再分配こそが本質です。
私は「家族を守る」という美談には関心がありません。
むしろ、家族という構造そのものを問い直すところからしか、
承継の本質は始まらないと思っています。
継承とは、構想の主体として、創業者として事業を再構築すること。
それが、承継の最低条件だと考えています。
実際、経営相談の中で「せっかくなら工場を新しくしたい」という話をよく伺います。
しかし、多くの方がこう言います。
「何から手をつけていいか分からない。」
建築? 機械? 補助金?
要素が複雑に絡み合い、動けなくなるケースが多いのです。
特に、
「承継するから建て替えよう」と考え、いきなりゼネコンに相談する──
このパターンは非常に多いです。
けれど、ゼネコンは**“箱”のプロ**であって、
事業モデルや製造プロセス、補助金・資金繰りまで設計することはありません。
その結果、
動線が現場と合わない
機械導線と電源系統が噛み合わない
補助金制度に不適格な構造になる
結果的に、補助金も融資も通らず、重い固定資産だけが残る──
そんな事例を、私はいくつも見てきました。
私たちアカネサスが取り組んでいるのは、
単なる「補助金申請」や「工場改修」ではありません。
“承継に値する構造”を、再設計すること。
補助金も工場も手段にすぎません。
「構想」がなければ、承継はただの資産移転で終わる。
構想なき承継に、成長は存在しない──私はそう確信しています。
次回は、この「構想」を私自身がどのように実装していったのか。
特に、再生の中で直販モデルに挑戦したエピソードをお話しします。
それではまた。
株式会社アカネサス
代表取締役
北條竜太郎
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