こんにちは。
アカネサス代表の北條です。
本シリーズでは、経営書やビジネス書では語られにくい視点から、
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社会や組織の設計
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判断の基盤
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構想を支える思考
について考えてきました。
第1回では、浅田彰『構造と力』、ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』を通じて、「変化の起点を読む力」を扱いました。
第2回では、大澤真幸先生の『不可能性の時代』を取り上げ、「思い通りにならない現実」をどう設計に取り込むかを検討しました。
そして今回は、同じく大澤真幸先生の代表的な論考
**『虚構の時代の果て』**を手がかりに、
なぜ、語ることをやめてはいけないのか
について考えます。
『虚構の時代の果て』とは何か
1995年のオウム真理教事件──地下鉄サリン事件を含む連続テロは、戦後日本の安全神話と社会的信頼を大きく揺るがせました。
当時、私は高校生でした。受験を控えながら、朝のニュースにどこか現実味のない違和感を覚えていたことを記憶しています。
その2年後に刊行されたのが、大澤真幸先生の『虚構の時代の果て』です。
この本の核心は、オウム事件を「宗教問題」や「狂信」の問題としてではなく、
語りの構造が崩壊した出来事
として捉えた点にあります。
大澤先生は、戦後日本の時代を次のように整理します。
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理想の時代:戦後〜1970年代(連合赤軍事件で終焉)
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虚構の時代:1980年代〜1995年(オウム事件で終焉)
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不可能性の時代:1995年以降(語ることそのものが成立しなくなる時代)
これは単なる年代区分ではありません。
「語りが成立する条件」が変わった、という構造的変化の指摘です。
語ることが困難になった時代
本書で扱われる重要概念の一つが、
「自己内他者」
という考え方です。
これは、バフチンの対話論やラカンの〈大他者〉に通じる発想です。
たとえば私たちは、誰かが目の前にいなくても、
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これは伝わるだろうか?
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恥ずかしくはないか?
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許される行為なのか?
と自分に問い続けます。
この「自分の中にいる他者」が、自己内他者です。
それは単なる記憶の残像ではありません。
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他者の視点で自分の言葉を検閲する
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あらかじめ反応を想定する
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倫理的な方向づけを行う
こうした内面化された対話の構造そのものです。
誰に何を語るのか。
どう受け止められるのか。
この問いを内在させているからこそ、語りは暴走せず、倫理を保つことができます。
自己内他者こそが、語りの前提条件なのです。
私自身の経験と重なる部分
私は大学院時代に、大澤真幸先生の講義を受けていました。
その後、アカデミックの世界から離れ、経営や現場へ軸足を移しました。
しかし今振り返ると、当時の思考は制度設計や現場判断に確実に生きています。
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なぜ合理的に説明しても動かないのか
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なぜ正しいはずの提案が通らないのか
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なぜ共有されるはずの前提が崩れるのか
それは能力の問題ではなく、
共有される「語りの土台」が崩れている
という問題であることが多い。
構造がズレている。
共有地盤が崩れている。
そんな時代において、それでも語る側に立つとはどういうことか。
そこにこそ、この本の射程があります。
それでも語る理由
語りが成立しにくい時代において、語ることを続けるには、問い直さなければなりません。
誰のために語っているのか?
実在する他人の評価ではなく、
「語るに値する相手」を自分の中に持てているか
それが、判断や設計の質を左右します。
自己内他者という視点は、単なる理論ではありません。
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判断のブレを防ぐ軸
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設計の倫理的基盤
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組織における対話の前提
として、実務の場面でも機能します。
語りが空虚になるのは、
自己内他者を失ったときです。
語りが意味を持つのは、
その内面の対話が続いているときです。
用語補足
不可能性の時代
信じられる物語が失われ、語ること自体が困難になった時代状況。
第三者の審級
社会全体で通用する「正しさ」や「価値」を支えていた超越的視点(神・国家・社会規範など)。
自己内他者
他者がいなくても、自分の中に他者の視点を保持し、問いかけ続ける構造。語りの倫理的前提。
書籍情報
📘『虚構の時代の果て』大澤真幸(1997年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4004305305
終わりに
語りが成立しにくい時代だからこそ、
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それでも語るのか
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誰に向かって語るのか
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どのような倫理のもとで語るのか
が問われます。
構造を読む力、ズレを扱う力、そして語りを引き受ける力。
この3つは分離できません。
それでも語る理由は、
語ることでしか設計できない未来があるからです。
── 北條竜太郎